2005年7月
 工房のある白浜には、子どもがいません。若者もいません。最後の中学生というのが、もう何十年か前の話になります。蝉の鳴き声だけが響く、静かすぎる集落です。
 隔年の旧暦七月に行われる「白浜豊年祭」も、今年はお休みの年になります。去年の祭りでは私たちも余興の踊りに加わり、司会や受付といった仕事で協力させてもらいました。祭り前には奉納舞踊の練習が毎晩続きました。祭り当日には、人口が何倍にも増えました。
 祭りで少し「人酔い」しましたが、すぐにいつもの白浜に戻り、そして来年の祭りまで、白浜はひっそりとしているのです。

 6月の記録的な大雨で、沖縄中の畑が被害を受けています。我が「シーサイドファーム」も被害は大きく、バナナは未熟のまま腐り、トウモロコシは実をつけず、パパイヤの木は倒れてしまいました。トホホ‥です。5月に皮算用した大きなタヌキが、あっさり逃げて行きました。おおい、天の神様よぉ‥

 のんびり平和イメージの白浜ですが、とても悲惨な戦争の歴史もかかえています。
 60年前、上陸した米軍に沖縄北部が制圧されていたころです。当時「渡野喜屋」と呼ばれていたこの白浜で、日本兵による、沖縄住民の集団殺戮があったのです。
 日本軍の組織的な反撃が不可能になり、一般住民は米軍により保護されていました。収容所が満杯のため、臨時に民家で仮収容された人々もいました。白浜の空き屋でも、本島中南部から避難して来た女性、老人、子どもらが、米軍から食糧等を支給され続けていました。
 そこを夜陰に乗じ、山から降りた敗走中の十名前後の日本兵が襲ったのです。米軍と接したということで、「スパイ」の名目で、全員を処刑対象にしたのです。難民全てを砂浜に集め、手榴弾で殺しておいてから、彼らの本当の目的である食糧を全部奪い取ったのです。
 そんな大きな事件にもかかわらず、その詳細を知る村民は多くありません。特に、他府県から移住してきた「日本人」には、概略を知る機会すらないことと思います。
 殺された数十名の人たちは、名前すら分かっていません。敗残兵たちがその後どうなったか、それも分かりません。
 その「渡野喜屋」に沖縄人と大和人の私たちが移り住み、平和の恩恵を受けながら、暮らし続けています。
 事件から、ちょうど60年。虐殺の現場は、我が「シーサイドファーム」の前の浜あたりということです。



2005年6月

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